変遷と発展
当初流名は「神道夢想流」と称していたが、享保年間に至り、原田兵蔵信貞のときに「新富夢想流」と改称している。その後、第7代永富幸四郎の時(享保2年~安永元年)には門弟三百名を超えたが、永富の死後は春吉師役系と地行師役系の二系に分かれている。この頃から「神道夢想流」という流名も現れている。
幕末の黒船来航以来、各藩で武術が奨励されるようになり、黒田藩でも平野吉三能栄の時に杖術の隆盛をきわめ、一千名を超える弟子を育てている。この能栄の次男が幕末勤王の志士として名高い平野次郎國臣である。國臣は、杖は目録まで進んでいたとされる。文久2年、生野の義挙に加わったが、これに失敗し投獄された。そして禁門の変が勃発した際に、京都所司代の命により、同獄33名とともに獄舎内で新選組に処刑されている。享年37歳であった。
明治になり、神道夢想流をはじめとする諸流武術が一時衰退の時期を辿るが、明治35年には吉村半次郎らを中心として、神道夢想流の稽古会が開催されるなど、復興の動きも見られた。その頃に春吉系と地行系の合同が図られたとされている。当時の免許者の中で道場を構えて門弟を育成したものの中に白石範次郎がいた。白石は、平野能栄、佐田亭助、吉村範次郎らの教えを受け、免許皆伝まで進んでいる。白石は、高山喜六、清水隆次、乙藤市蔵、乙藤春男ら神道夢想流杖道の普及発展に貢献した多くの免許者を育成し、昭和2年に81歳の天寿を全うした。
また、白石とは別に東京での普及に尽力をした内田良五郎について述べたい。内田は、天才的な技量の持ち主で、剣術、槍術、馬術、砲術など武道全般に優れた能力を持っていた。特に神道夢想流杖、一角流捕手については平野能栄の教えを受け、免許皆伝であった。内田は、西南の役後に上京し、海軍士官などに杖を教授するようになった。その後多くの門人を抱えるようになり、その中には中山博道もいた。内田は、杖術普及のための工夫としてステッキ術(内田流短杖術)を創始している。
白石範次郎の没後、一旦道場は消滅するが、弟子達の努力によって昭和4年に「福岡道場」が創設された。高山喜六を師範、清水隆次を副師範、乙藤市蔵ら免許者を教師として杖道の普及指導が始まったのである。翌5年には清水隆次が上京し、東京での普及を開始した。各所での演武や指導内容が高く評価され、講道館や警視庁にも採用されている。昭和13年には高山が急逝したことで乙藤市蔵が福岡道場の師範となり、東京は清水、福岡は乙藤という流れができた。
特に東京では団体指導に適した基本十二本が考案されたり、剣道との関わりから太刀が変更されたりしており、古流を維持する福岡との違いが明確になっている。確かに形の細部に違いは見られるが、技術の本質に違いはなく、学ぶものの理解と技量の問題としたい。