無外流居合兵道とは

無外流について

無外流は、江戸時代中期、近江甲賀郡馬杉の人・辻月丹資茂(つじ・げったんすけもち)により興された剣術流儀である。月丹は剣の道を極めていくうちに『剣禅一如』にも惹かれるようになり普光山吸江寺の石潭禅師を師として参禅する。以来十九年、遂に大悟し、「一法実無外 乾坤得一貞 吹毛方納密 動着則光清」の一偈を与えられた。この偈より自身の流儀を「無外流」と名づける。
太平の世に慣れた安直な型稽古に終始することを嫌い、立ち合いの厳しい剣を重視する無外流は、実践派の剣士達の支持を得、次第に広まっていった。

無外流顕彰碑と塩川先生
無外流居合兵道第十五代宗家・塩川寶祥先生と、山形・居合神社に二〇〇五年六月に建立された顕彰碑。

無外流の剣を示すエピソードが残っている。あるとき、月丹が庭で薪を割っていると、一人の屈強な武芸者が立ち合いを求めてきた。「無外流の高名を聞いて参った。ぜひ、一手ご教授願いたい」月丹は断ったが、「ぜひとも……」としつこくつきまとってくる。すると月丹は傍らの薪を手に取ると、武芸者の頭上を一閃、「これが無外流だ」といった。武芸者はあえなくその場に昏倒した。立ち合いの場所や時間を選ぶといった悠長な剣法など、月丹の求める剣理には存在しなかった。
月丹が六十歳の頃には、大名、旗本、御家人、その他併せて五千余名の門弟を持つ大流派となった。厩橋藩(後年姫路藩に転封)酒井家には月丹の養子が、土佐藩山内家には月丹の甥がそれぞれ召抱えられ、姫路藩と土佐藩を中心に、無外流は各地に伝わった。
現代に伝えられる“無外流居合兵道”は、月丹が回国修行中に自鏡流居合の流祖・多賀自鏡軒盛政に学び、代々無外流兵法の中で伝えられてきた自鏡流居合を、無外流中興の祖・中川士龍師範が“無外流居合兵道”として再編成したものである。その剣風は「質実剛健」。徹底して華美を排し、逆袈裟斬りと突きを主体とした実践本意の居合である。しかし、修行多年に及び、心技体全てにおいて充実した者にのみ、生殺の域を超え、いたずらに相手を傷つけることを戒め、反省を促し、以って平和の道を開拓する活人兵法として昇華する。

流祖・辻月丹について

無外流流祖・辻月丹
無外流流祖・辻月丹

無外流の流祖・辻月丹資茂(つじ・げったんすけもち)は、慶安元年(一六四九年)に、近江国甲賀郡馬杉村(現在の滋賀県甲賀市甲南町上馬杉)に、郷士の次男として生まれた。父は佐々木高綱の後裔・辻弥太夫と伝わる。十三才の時、京都に出て山口流剣術の流祖・山口ト真斉のもとに入門。北越地方の武者修行を行いながら剣術修行に邁進。二十六歳でト真斉より印可を得ると、本格的な回国修行の旅に出、三十三カ国に渡って十二の流儀を修めた(中でも多賀自鏡軒盛政について学んだ自鏡流居合は、道場の隅に置いた百目蝋燭の炎を抜き打ちの一手をもって消したという逸話が残っている)。しかしそれでも満たされない思いがあったのか、近江の油日獄や愛宕山に籠り、祈誓の荒稽古に明け暮れた。日々抜刀千回納刀千回、しかも清水だけで七日間をしのぐという荒行もおこなったと伝えられている。
江戸へ出た月丹は、麹町に山口流の道場を構えた。しかし一方でその求道精神が満たされることはなく、麻布の普光山吸江寺の石潭禅師に日夜参禅し、自身の剣理、兵法のあるべき姿を模索し続けた。石潭禅師入滅後は神州禅師について学び続けて参禅すること十九年、四十五歳にして遂に大悟し、石潭禅師の御名をもって
「一法実無外 乾坤得一貞 吹毛方納密 動着則光清」
の一偈を与えられた。この偈より自身の流儀を「無外流」と定めたのであった。おりしも江戸に来ていた剣術の師・山口ト真斉との三本勝負で完全勝利をおさめたことで、月丹は無外流の流祖として新たな道を歩み始めたのである。
兵法家であり優れた禅者でもあった月丹のもとには多くの門人が集い、六十歳を迎える頃には酒井忠挙(雅楽頭)、小笠原長重(佐渡守)など錚々たる大名をはじめ、五千名を超える門弟がいたという。しかし月丹は驕り高ぶることなどなく、食事、服装などから世の中の出来事に至るまでまるで関心を示さず、無欲で質素な生活を続けた。大名家から剣術指南役として迎えたいとの度々の申し出を断り、厩橋藩(後年姫路藩に転封)酒井家には月丹の甥・辻右平太を、土佐藩山内家には月丹の養子・都治記摩多資英を推挙し、剣術指南役とした。
享保十二年(一七二八年)六月二十三日、禅学の師・石潭禅師の命日と同月同日、辻月丹は己の死期を悟ると静かに結跏趺坐をし、そのまま大往生をとげた。生涯独身、七十九歳であった。
法名「無外子一法居士」。江戸・高輪の如来寺大雲院に葬られた。
生前月丹が残した無外流の伝書である「無外真伝剣法訣」は、その内容の深玄さと文章の流麗さにおいて、本邦武術伝書中の絶品としていまなお輝きを放っている。
「無外真伝剣法訣」第十則【万法帰一刀】の最後の句に曰く

『更に参ぜよ三十年』