無外流について
無外流は、江戸時代中期、近江甲賀郡馬杉の人・辻月丹資茂(つじ・げったんすけもち)により興された剣術流儀である。月丹は剣の道を極めていくうちに『剣禅一如』にも惹かれるようになり普光山吸江寺の石潭禅師を師として参禅する。以来十九年、遂に大悟し、
「一法実無外 乾坤得一貞 吹毛方納密 動着則光清」の一偈を与えられた。この偈より自身の流儀を「無外流」と名づける。
太平の世に慣れた安直な型稽古に終始することを嫌い、立ち合いの厳しい剣を重視する無外流は、実践派の剣士達の支持を得、次第に広まっていった。
無外流の剣を示すエピソードが残っている。あるとき、月丹が庭で薪を割っていると、一人の屈強な武芸者が立ち合いを求めてきた。「無外流の高名を聞いて参った。ぜひ、一手ご教授願いたい」月丹は断ったが、「ぜひとも……」としつこくつきまとってくる。すると月丹は傍らの薪を手に取ると、武芸者の頭上を一閃、「これが無外流だ」といった。武芸者はあえなくその場に昏倒した。立ち合いの場所や時間を選ぶといった悠長な剣法など、月丹の求める剣理には存在しなかった。
月丹が六十歳の頃には、大名、旗本、御家人、その他併せて五千余名の門弟を持つ大流派となった。厩橋藩(後年姫路藩に転封)酒井家には月丹の養子が、土佐藩山内家には月丹の甥がそれぞれ召抱えられ、姫路藩と土佐藩を中心に、無外流は各地に伝わった。
現代に伝えられる“無外流居合兵道”は、月丹が回国修行中に自鏡流居合の流祖・多賀自鏡軒盛政に学び、代々無外流兵法の中で伝えられてきた自鏡流居合を、無外流中興の祖・中川士龍師範が“無外流居合兵道”として再編成したものである。その剣風は「質実剛健」。徹底して華美を排し、逆袈裟斬りと突きを主体とした実践本意の居合である。しかし、修行多年に及び、心技体全てにおいて充実した者にのみ、生殺の域を超え、いたずらに相手を傷つけることを戒め、反省を促し、以って平和の道を開拓する活人兵法として昇華する。